創業期
大正4(1915)年




第一次世界大戦の真っ只中に、創業者・大石 眞子によって、大阪市南区末吉橋通4丁目(現:中央区南船場)に
大洋株式会社の前身となる「アメリカ商会」が創設される。
米国サンフランシスコのモース・カンパニーの輸入代理店として、自動車部品・付属品・ベアリング等の輸入、国内販売を開始した。
米国におけるフォード車の保有台数は全メーカーの40%で100万台を超えていたが、大正3年の日本国内における自動車輸入台数は94台、同年の保有台数は乗用車が1,034台、トラックが24台という状態であった。
まだ日本国内には自動車会社が存在せず、乗用車すべてが輸入車という時代に、
将来の自動車産業の発展を信じた、創業者・大石の先見の明で自動車部品事業に挑み始めることとなった。
設立期
昭和4-11年(1929-1936)




昭和4年11月28日、株式会社アメリカ商会を設立。
さらに翌年、首都圏で補修部品事業を展開するため 東京都芝区田村町3丁目(現 東京都港区西新橋)に株式会社東京アメリカ商会を設立した。
昭和8年、満州事変後の、日本の輸出競争力の増大と輸入減少による内需拡大が後押しし、
アメリカ商会は、当時の支那、印度、及びマライ方面に国産部品を輸出、海外事業に乗り出すこととなった。



昭和恐慌以降、輸出関係事業は苦戦を強いられていた中、輸入車の補修部品市場に安価な国内部品が注目され アメリカ商会でも従来のような輸入部品だけではなく、国産自動車部品の製造を手掛ける工場との関係を強めていった。
その頃、商工省や陸軍省は国内の自動車産業育成に積極的に注力し、日産自動車の前身「ダット自動車製造株式会社」、豊田自動織機製作所自動車部が誕生する。アメリカ商会は、昭和9年に日産自動車とトヨタ自動車へ組立用自動車部品の供給を開始したとの話が伝わっている。
戦時下
昭和11-20年(1929-1936)



昭和11(1936)年5月、自動車製造事業法が公布、自動車製造事業は国の許可制となり指定会社は国産部品の使用 が義務付けされ国産部品産業が発展した。その前後からアメリカ商会では、名古屋出張所も設立し、国産部品事業の拡充のため国産品をトヨタ自動車工業株式会社に納入するなど、自動車国産化の第一歩にも大いに協力・貢献していた。



昭和14年(1939)年、アメリカ商会は中国の北京東四大街に北京出張所を設置。
米国から招かれた海外情勢に明るい新代表:江南宗太郎は幾度も中国出張を重ねて現地での事業拡大に努め、
翌昭和15年に日本自動車輸出組合の理事に就任した。
また、国内では同年、大阪市東淀川区三津屋南通り5丁目(現:淀川区)にて、自動車部品製造工場「大洋工業株式会社」を設立して部品製造事業に乗り出した。
第2次世界大戦が始まった、翌年の昭和15年10月、東京アメリカ商会の代表取締役であった野田豊太郎が召集され、陸軍歩兵少尉として中国大陸へ赴いた。米国との全面戦争の始まりと共に、「アメリカ商会」という社名への風当たりが強くなり、昭和16年8月、社名を「株式会社大洋商会」へと変更した。
昭和17年の4月に、占領わずか2ヶ月後のシンガポールに、元ユナイテッドモーターワークスリミテッド跡に支店を開設した。 自動車及びその部品の製造・販売は、軍用車両最優先の世の中であった。
昭和17(1942)年8月野田豊太郎は召集を解除され、帰国、それとともに大洋商会の代表取締役に就任した。厳しい戦時下で、補修部品の高まっていた台湾、朝鮮へ毎月出張員を送り定着した販売網を確立するなど海外事業の発展に力を注いだ。
復興・
高度経済成長期
昭和20-44年(1945-1969)
終戦直後、社会インフラが崩壊した状況で、従来の自動車部品事業を再開するめどはすぐに立ちそうもなく、昭和20年9月に出されたGHQの方針により復興トラック月産1500台の生産だけというもので、自動車の販売も戦時下同様に統制配給制となった。 戦前、戦中以来の整備不良が目立つ中古車ばかりではあったが、補修部品の需要と部品メーカーの生産力、部品流通業の再建がうまく組み合わさっていなかったとみられ、当時の社長野田は「この時代が一番つらかった」と回想している。
昭和22年 自動車部品の製造技術向上をめざして、商工省がトヨタ、日産、いすゞの自動車メーカー関係を主とした認定部品に定め、戦前同様の「優良自動車部品認定規則」を開始した。
生産力の回復と流通網の再建が始まり、前途に光明を見出した野田豊太郎は昭和21年、自動車部品流通網の再建のために、同業他社と力を合わせて「全国自動車部品卸商組合」(現 日本自動車部品協会)を設立した。
昭和22年8月、終戦後に禁止されていた民間貿易が制限つきながら再開され、昭和23年には、大洋商会待望の輸出事業を再開し、翌24年に貿易部を設置した。
昭和20年代後半、大洋商会の事業は国内・海外ともに活況を呈しだした。
メーカーより到着した部品を木箱から釘抜きで開梱し、北海道から九州まで各地の部品商へ鉄道便で配送された。 社員は、倉庫業務を数年間担当して商品知識を身につけ、顧客情報を頭に入れ分厚く、重いカタログを持って、鉄道やバスを乗り継いで1週間ほどかけてルート販売していた。




























